手と思想の職人録 (noteでも読めますhttps://note.com/kurashikku_work)
DIYでやるか、プロに頼むか。
ここ数年で、お客さんに相談されたり、
話題に出ることが多くなってきました。
結論から言うと、
DIYとプロは、
やっていることが同じに見えて、
中身は全く別のものです。
例えば、水栓交換。
うまくいけば、30分で終わる作業です。
実際、DIYで問題なく交換できるケースも多いと思います。
だから、
「これなら自分でできるじゃん」
そう思うのも、全然おかしくないです。
でも、ここにひとつ大きなズレがあります。
現場って、
何も起きなければ簡単なんです。
問題は、
“何かが起きた時”です。
水栓交換でも、
・固着して外れない
・配管が劣化していて折れる
・止水できない
・サイズや規格が微妙に合わない
こういうこと、普通にあります。
その場合、30分の作業が、
平気で3時間、4時間かかる工事になります。
DIYだと、こういう状況に出くわす確率は低いです。
だからこそ、
「意外と簡単だった」
という体験になりやすい。
でも、プロは違います。
何百件、何千件とやっていると、
そういう“ハマる現場”には、必ず定期的に出くわします。
これは、運が悪いとかじゃないです。
普通に起こることです。
そして、
そういう時にどうするか。
ここが、DIYとプロの決定的な違いです。
プロは、
どんな状態でも、終わらない現場はないと分かっています。
対処するための引き出しも、経験もあります。
一方で、
DIYレベルの経験だと、
そこで止まる可能性が高いです。
しかも、内容によっては普通に危険です。
電気、水道、ガス。
このあたりは、
最悪、事故や賠償に繋がる領域です。
プロは、
そういうリスクと隣り合わせの状態が“平常運転”です。
この差は、かなり大きいです。
なので、
DIYが悪いという話ではなくて、
領域の見極めが必要なんだと思っています。
内装仕上げのように、
失敗しても中断したり、やり直しできたりするものは、DIYでやってみてもいいと思います。
でも、
大工、電気、水道、ガス。
このあたりは、
やるならそれなりの覚悟が必要です。
「できるかどうか」じゃなくて、
“何か起きた時に対処できるか”
ここで判断した方がいいです。
ここから、施主支給の話です。
これも最近かなり増えています。
結論から言うと、
成り立つケースもありますが、
前提の理解がないと、結構危険です。
よくあるのが、
「商品は自分で買うので、取付だけお願いします」
というパターン。
これ、一見シンプルなんですが、
実際はそんなに単純じゃないです。
例えば、エアコン。
量販店で買って、
いざ工事当日。
「これ、取り付けできません」
これ、普通にあります。
物理的に無理というより、
追加工事をしないと成立しない、という意味です。
・配管のルートが取れない
・穴位置が合わない
・電源条件が違う
こういうことは、珍しくないです。
なぜ起きるかというと、
商品選定の段階で、
現場条件を踏まえた判断がされていないからです。
プロは、
商品を選ぶ時点で、
・現場に納まるか
・必要な工事は何か
・予算とのバランス
ここまで全部見ています。
だから、
リフォームで選べる商品って、実は結構限定されます。
条件を全部クリアできるものだけを、絞っているからです。
施主支給を成立させるには、
これと同じレベルの判断が必要になります。
・図面を読める
・現場を想像できる
・工事工程を組める
ここまでできて、初めて成立します。
逆に言うと、
ここが抜けた状態で施主支給をすると、
・追加工事が発生して高くなる
・そもそも取付できない
・余計な手間が増える
こういうことが普通に起こります。
結構な確率でハマります。
ここも、ひとつ大事なことがあります。
親切な業者であれば、
事前に施主支給のリスクはちゃんと説明してくれます。
できればやめた方がいい、という話も含めて。
一方で、
あとから施主側に責任や負担を求めてくるケースも、
実際かなり多いです。
施主支給は、
ちゃんと打ち合わせをして、
どこまでを誰が持つのかを整理した上で契約しないと、
普通にトラブルになります。
内容をちゃんと知ると分かるんですが、
施主支給って、
実はそこまでメリットがある話でもないです。
極端に言えば、
プロと同じレベルで判断や段取りができるなら、
その分安くなる、というだけの話です。
逆にそこができない場合は、
結果的に高くついたり、
余計な負担が増えることの方が多いと思います。
ここ、実際にあった話です。
床材とクロスの張り替えで、
「余っている材料があるので、施主支給でやってほしい」
というご相談がありました。
数量は足りている、という前提で、
現調やその事前確認の手間を差し引いて、少し安く引き受ける形です。
問題なく終われば工賃も材料も安く納まり、良いかたちで終わる現場でした。
結果として、材料自体は足りていました。
ただ、
プロの感覚でいうと、
“足りていない状態”でした。
どういうことかというと、
材料って、ただ枚数が足りていればいいわけじゃなくて、
割り付けやカットロス、
多少のミスも含めて、余裕を持って用意するのが前提なんです。
それがギリギリだと、
納めるために無理な加工が必要になったり、
割り付けをかなりシビアに計算しないといけなくなる。
結果的に、
1日で終わる想定だった工事が、終わらなくなりました。
こちらとしては、
追加で半日分の人工をいただけないか相談したんですが、
そこがトラブルになりました。
最終的には、
仕上がりを崩すわけにもいかないので、
追加はいただかずに対応しましたが、
取引はそれきりになりました。
あとから思うと、
事前のすり合わせが足りなかったとも思います。
ただ、
そこまで踏み込んで事前に確認するなら、
その分のプランニングや判断の手間は、
結局どこかに乗ってきます。
つまり、
施主支給にしたからといって、
大きく安くなるわけではない、ということです。
こういうズレって、
材料だけじゃなくて、
「素取り替えのつもりが、実際は配管の切り回しが必要だった」
みたいな形でも、普通に起こります。
DIYも、施主支給も、
やってはいけないとは思っていません。
ただ、
どこまでを自分で引き受けるのか。
そこを考えずにやると、
ただの運任せになります。
それは、
あまりおすすめできないです。
やるなら、
コストカット目的ではなくて、
趣味やこだわりのカスタマイズとしてやった方がいいと思っています。
そのための対価を支払う前提で、
プロに相談したり、監督してもらう形を取る。
その方が、結果的に安全ですし、
無駄な遠回りもしなくて済みます。
施主支給やDIYは、
コストカットのための選択肢ではないと、
僕は思っています。
正解って、なんなんだろうなって、最近よく思っています。
現場でもよく聞かれます。これで合ってますか、とか。このやり方が正解ですか、とか。
自分も、昔はかなりそういうのを気にしていました。なるべく正しい方を選びたいし、変なことはしたくないし、遠回りもしたくない。だから、正解を知ってから動きたい、みたいな感覚がありました。
でも、やっているうちに、なんか違うなと思うことが増えてきて。
その時はこれが正解だと思ってやったことが、あとから見ると全然違ったりします。別の現場では通用しなかったり、人が変わると評価がひっくり返ったりする。
さっきまで正しかったはずなのに、っていう感覚になることがあるんですよね。
例えば、あるやり方でうまくいったとしても、条件が少し変わるだけで全然ダメになることもあるし、逆に、あまり良くないと思っていた方法が、あとから見ると一番良かった、みたいなこともある。
そういうのを何回も見ていると、
正解って、最初から決まってるものではないと思っています。少なくとも、自分が見てきた中では、そういうものには一度も出会っていません。
なんていうか、あとから「それが正解だった」って言われてるだけで、その時は誰も分かってなかったんじゃないか、みたいな感覚があります。
例えば、少し極端な話かもしれませんが、戦争に正解はあるのか、とか。どちらが正しいのか、とか。こういう問いに、はっきり答えを出せる人って、本当にいるんでしょうか。
時代背景や経緯、関わった人それぞれの立場や事情まで辿っていくと、単純に正しいか、間違っているかでは分けきれない気がします。
殺人事件もそうです。もちろん、やってはいけないことだという前提はある。でも、その背景に何があったのかまで含めて考えた時に、それを一言で正解・不正解と切り分けることに、少し引っかかることがあります。
法律やルールや常識も、絶対的なもののように見えて、時代や場所によって変わっていくものです。そういうものの上で判断されていることが、一律に変わらない正解と言い切れるのか。
自分は、まだよく分かっていません。
というか、正解という言葉は、そんな万能に使える言葉じゃなくて、かなり限定的なことにしか使えないものなんじゃないかと感じています。例えば、1+1=2。はい正解、みたいな。
そういう、答えが最初から決まっているものに対しては使えるけど、現実の中で起きていることに対して、同じ感覚で「正解」を当てはめようとすると、どこか無理が出てくる。
それでも、人は正解を欲しがるし、正解がある前提で考えることに慣れている気がします。
学校でも、仕事でも、評価されるのは「正しく答えたかどうか」で、考えた過程よりも答えの方が重く見られることが多い。だから、正解を知ろうとするし、外さないように動くし、できるだけ間違えないルートを選ぼうとする。
それ自体は悪いことではないと思います。効率もいいし、安心もできる。
でも、そのまま続けていくと、気づいたら、自分で考えなくても生きていける状態になることもある。
選ぶことには慣れているけど、決めることには慣れていない、みたいな。これって、少し怖いなと思います。
用意された選択肢の中から選び続けることと、何もないところから自分で決めることは、似ているようで全然違うので。
正解を外したくないという気持ちが強くなると、そもそも選ばなくなることもある。失敗しそうならやらない、とか。間違えそうなら手を出さない、とか。
それって、間違えていないように見えて、何も起きていないだけなんじゃないか、と思うこともあります。
自分の中では、迷いながら選んだこととか、うまくいかなかったことの方が、後から残っていることが多いです。その時は間違いだったと思っていても、あとから見たら、あれがあったから今がある、と思えることがある。
逆に、その時「正解っぽいもの」を選んだことの方が、何も残っていないこともあります。
そう考えると、正解かどうかよりも、どう向き合ったかの方が大事なんじゃないかと思っています。
ちゃんと考えたか。ちゃんと迷ったか。ちゃんと選んだか。
その積み重ねが、あとから自分の中で「これでよかったのかもしれない」と思えるものになるだけで、最初から正解があったわけではないのかもしれません。
だから、正解を探すな、という話ではなくて、正解を前提にしすぎない方がいいんじゃないか、という感覚です。
分からないまま考えるとか、決まっていない中で選ぶとか、そういうのを避けないこと。その方が、遠回りに見えるかもしれないけど、あとからちゃんと、自分の足で立てるようになる気がしています。
もし、人類が誕生してから今まで、ずっと変わらない正解があるなら、自分も知りたいです。
でも、今のところは、まだ見つかっていません。
だから、今日も、分からないまま考えています。
まず、
「あまりって何してるんですか?」と聞かれることがあります。
正直、
一言ではうまく説明できません。
古民家再生ですか?と聞かれれば、
そうです、とも言えるし、
いや、ちょっと違います、とも思っています。
実際にやっていることだけ見れば、
古民家を直したり、
畑をいじったり、
何かを作ったりしています。
でも、
それが本質ではないんです。
現場にいると、
もっと違うことが起きています。
例えば、
誰かが初めてノコギリを持って、
なかなか切れなくて止まっている時間。
誰かが、
何をしていいか分からずに、
ただその場に立っている時間。
誰かが、
やってみたいけど一歩出れなくて、
周りを見ている時間。
そういう時間が、
普通にあります。
それと、もうひとつ。
あまりに来た人は、
だいたい最初にこう言います。
「何すればいいですか?」と。
この言葉に、
自分はずっと違和感があります。
それと、似ているようで少し違う言葉もよく聞きます。
「どうすればいいですか?」とか、
「こんな感じでいいですか?」という確認です。
何すればいいですか?に比べると、
やり方や納め方の確認ですよね。
でもこれも、
正解を選ばなきゃいけないとか、
間違えたくないとか、
そういう感覚から出てきている言葉なんだと思います。
あまりでは、
誰が上とか下とか、
役割とか立ち位置とか、
そういうことを言葉で決めたことはありません。
やり方も、納め方も、
こうしなさいと指定したこともありません。
でもそれでも、
人は自然と、
自分の立ち位置みたいなものを感じ取って、
勝手に決めてしまう。
それが良いとか悪いとかじゃなくて、
そういう力が思っている以上に強く働いているんだと思います。
正解とか間違いも、
ある人にとっての正解は、
別の誰かにとっては違ったりするし、
そもそも、
何に対しての正解なのか、
誰にとっての間違いなのか、
全部、
共通の前提があって初めて成立するものだと思います。
その前提が無いなら、
正解も間違いも、
自分で決めていいものなんじゃないかと、
僕はそう思っています。
もちろん、自然なことだと思います。
普段の生活や仕事の中では、
求められたことをやるのが当たり前だし、
その方がうまく回る場面も多い。
でも、
ここでは、
そうじゃなくてもいいんじゃないかと思っています。
何をすればいいか、ではなくて、
自分は何がしたいのか。
そっちの方を、
見てみてもいいんじゃないかと。
やりたいことをやっていいし、
やりたくないなら、やらなくてもいい。
少し極端かもしれませんが、
それくらいの感覚でいい場所だと思っています。
そして、
最初は「何すればいいですか?」と聞いていた人が、
だんだん、
自分で動き始めることがあります。
やってみたいことをやりたいと言えたり、
言わなくても、勝手に始めていたり。
まるで子供みたいに、
自分の感覚に素直に動いている。
そういう変化が起きる瞬間を、
何度も見てきました。
子供たちを見ていると、
また違う気づきがあります。
現地に着くと、
みんな散り散りに走っていって、
好きな場所に消えていきます。
家というより、
アスレチックのある公園みたいな光景です。
誰かに止められない限り、
「自分はこうしたい」が一番上にある。
それが普通です。
大人はそうならないですよね。
その違いは何なんだろうと、
いつも考えさせられます。
自分自身の話で言うと、
社会に出てからずっと、
自分は少し子供寄りの感覚で生きているんじゃないかと感じていました。
だからこそ、
うまくいかないことや葛藤も多かったです。
周りはもっと“大人の感覚”で動いていて、
その中で自分もやろうとしていたから、
ズレが出ていたんだと思います。
大人の社会には、
言葉にしなくても存在している「べき」があって、
それが当たり前として回っていることに、
ずっと違和感がありました。
みんな同じように感じていると思っていたけど、
どうやらそうでもないのかもしれない。
最近はそう思うようになりました。
だからこそ、
勝手に同じだろうと期待するんじゃなくて、
自分の考えや感じていることを、
ちゃんと伝えていこうと思っています。
こういう話をしていると、
効率だけで見れば、
あまりで起きていることは、
遠回りに見えるかもしれません。
慣れている人がやれば、
すぐ終わることばかりです。
でも、
あまりでは、
その時間がよく起きます。
むしろ、
そこにこそ意味があるんだと思っています。
やったことがないことをやるとき、
人はすぐに動けません。
でもその中で、
少しずつ何かが動いていく。
そしてある瞬間に、
自分で動き出す。
ああ、今動いたな、と思う瞬間があります。
教えたわけでもないし、
やらせたわけでもない。
ただその人の中で、
何かが切り替わった瞬間です。
逆に、
すぐに手を出してしまうと、
その瞬間は起きません。
早く終わるし、
綺麗に納まるかもしれない。
でも、
その人の中では、
何も起きていないまま終わることもある。
それがいいとか悪いとかじゃなくて、
ただ違う、という感じです。
あまりは、
何かを教える場所でもないし、
何かを作る場所でもない。
結果としてそうなっているだけで、
それが目的ではありません。
どちらかというと、
それぞれが、
それぞれのタイミングで、
何かに触れて、
何かに気づく場所です。
そのために、
少しだけ余白があって、
少しだけ時間があって、
少しだけ誰かがいる。
それくらいの環境です。
正直、
綺麗な話ばかりではありません。
進まないこともあるし、
うまくいかないこともあるし、
ただ時間だけが過ぎる日もあります。
でも、
それも含めて、
あまりで起きていることです。
こういう場所で起きていることを、
どこまで言葉にできるのかは、正直まだ分かりません。
でも、
できるなら、
ちゃんと届くべき人に届くように、
少しずつでも発信していきたいと思っています。
自分でもうまく言葉にできないけど、
どこかに違和感を感じている人や、
何かが違う気がしているけど、
まだそれが何なのか分からない、
そんな状態の人にとって、
何かのきっかけになればいいなと思っています。
自分もそうだったので。
またそのうち、書くと思います。
現場で、よくある瞬間があります。
誰かが、止まって見える瞬間です。
施主さんだったり、
監督さんだったり、
職人だったり。
立場は違うんですが、
似たような空気になることがあります。
何かを決めるタイミングで、
ふと止まる。
そのとき、周りは少しざわつきます。
「どうするんだろう」
「まだ決まらないのかな」
そんな空気です。
工程もあるし、段取りもあるので、
できれば早く決めてほしい、というのが本音です。
だから、
「こうした方がいいと思いますよ」とか、
「一旦こっちで進めますか?」とか、
少しずつ外から動かそうとする。
自分もずっと、そうやってきました。
今もやってしまうことがあります。
でも、
止まって見えるその時間って、
実際には止まっていないんですよね。
考えているし、
迷っているし、
決めようとしている。
途中なんです。
途中だから、止まって見える。
これ、当たり前のことなんですが、
現場にいると忘れがちになります。
こちら側には、こちら側の時間があるので。
今日ここまで進めたいとか、
このままだと納まらないとか、
いろんな理由で、
どうしても先に進めたくなる。
だから、
「そろそろ決めてほしい」と思う。
ここにズレがあるんだと思います。
で、
最近思ったのが、
自分は待っているつもりだったけど、
あれは待っていなかったのかもしれないな、ということです。
よくよく考えると、
自分の中で時間を測っていて、
その中で「まだか」と思っている。
そして、その時間を過ぎたら、
声をかけたり、判断を促したりしている。
これって、
待つというより、
自分の時間に相手を合わせにいっているだけなんじゃないかと。
期限を決めて、
その中で動いてほしいと思っている。
それは、
やっぱり、待つではなくて、
催促なんだと思います。
じゃあ、待つって何なのか。
まだはっきり言い切れる感じではないですが、
相手の感覚に委ねること、なんじゃないかと思っています。
自分の時間じゃなくて、
相手の中で流れている時間の方に寄せるというか、
そっちに合わせにいく感覚です。
ただ、これが難しい。
相手のことをちゃんと分かっていないとできないし、
分かったつもりでも、たぶんズレる。
想像とか推測だけだと、
どうしても解像度が足りないんですよね。
知っているのと、
やったことがあるのとで、
見え方が全然違うのと同じで、
その経緯とか感覚を、
自分の中に持っていないと、
どこが「途中」なのかが見えない。
だから、
ちゃんと待つって、
ただ時間をかけることじゃなくて、
どれだけ相手を理解できているか、
そこにかかっている気がしています。
たぶん、
ちゃんと待てていれば、
出てきたはずの結果もあるし、
逆に、
自分の感覚で区切ってしまったことで、
出てこなかったものもあるんだと思います。
まだなのか、もうすぐなのか。
この違い、
今も正直よく分かっていません。
でも、
たぶん自分は、
思っているより早い段階で区切ってきたんだと思います。
本当はもう少し待てたはずの場面で、
手を出してしまっていた。
ちゃんと待てていれば、
違う形になっていたものもあったのかもしれません。
もう少し、見れるようになりたいなと思っています。
「あまり」という活動について、
これまで、リアルや経緯みたいなものは、あまり書いてきませんでした。
ホームページもあるし、インスタもあるし、
どこかで、もう伝わってるんじゃないかって、
少し安心していたのかもしれません。
でも、
やっぱりそれだけだと、
どうしても「良い部分」だけが見える形になるなと感じています。
実際は、そんなに綺麗なことだけではなくて、
あまりは、自然にできた場所でもありません。
僕の中にずっとあった、
なんとなくの違和感とか、不足みたいなものから始まっています。
家族で自然に触れながら過ごせる場所。
遊べて、学べて、体験できて、
なんかこう、心が豊かになるような場所。
そういうのが欲しいなと思っていました。
でも同時に、
それは自分には用意できないものだとも思っていて、
どこかで諦めていたところもありました。
そんな中で、
同じような感覚を持った人と出会いました。
そのときに初めて、
一人じゃ無理でも、
誰かとなら、もしかしたらできるかもしれないと思ったんです。
資金はゼロでした。
時間も、かなり無理をしないと作れない。
正直、リスクしかないような状況でした。
でも、
動かないという選択はなかったです。
時間って、自分にとってはほとんど命みたいなものなので、
そこで止まることはできませんでした。
夢中で物件を探して、
事業計画を立ててプレゼンして、
やっと融資が通って、
なんとか手に入れました。
そこからは、
綺麗事とか理想通り、みたいな感じでは全然なくて、
収益化もできていないまま、
身銭を切って、何年も自分たちの負担で維持しています。
正直に言うと、
簡単ではないです。
むしろ、続けていくほど難しいなと感じることの方が多いです。
それでも続けているのは、
ここでしか得られないものがあるなと、
やっていて感じているからです。
出会いだったり、体験だったり、
うまく言葉にできない余白みたいなものだったり。
最初は、完全に自分のために手に入れた場所でした。
でも続けていくうちに、
同じように、
何かを内に抱えたまま、
諦めている人もいるんじゃないかと思うようになりました。
きっかけさえあれば、
誰かと一緒なら動ける人もいるんじゃないかと。
だから、まずは身近な人から、
少しずつ声をかけてきました。
よく、
「古民家再生をやっているんですか?」と聞かれます。
僕自身も、そう説明してしまうことがあります。
その方がわかりやすいからです。
でも正確には、
少し違うというか、
たぶん全然違う気がしています。
あまりは、
古民家を再生することが目的の場所ではありません。
何かを作れる人が集まる場所でもないし、
技術や知識を持っている人が主役になる場所でもありません。
もちろん、そういう人たちが来てくれることは多いです。
でも、
ここで大事にしているのは、
そういうことではなくて、
それぞれが持っている、これまでの体験とか感覚です。
それは、
良いとか悪いとか、
優れているとか劣っているとかではなくて、
全部同じ価値だと思っています。
同じ人生って一つもないので、
その差が、どんなに小さくても、
そこにしかないものがあると思っています。
何も持っていない、と思っている感覚も、
ここではそのまま価値になります。
自分と同じ背中と、違う背中。
その両方があって、初めて見えるものがあると思っています。
僕が「共育」と呼んでいるのは、そういう状態のことです。
だから、
あまりは、
何かをできる人が集まる場所ではなくて、
それぞれがそのままで関わる場所です。
ただ、
ここにはまだ問題もあります。
あまりは、サービスでもボランティアでもありません。
本来は、
まだ形になっていない何かを持った人たちが集まって、
一緒に支え合いながらつくっていく場所です。
でも今は、
僕たちが場を用意して、
体験として提供している形に留まっています。
それは、
ちゃんと説明できていなかったからだと思っています。
本当は、
「自分もやりたい」
「一人じゃ無理だけど、仲間がいるならやりたい」
そう思った人たちが、
自分の意思で関わる場所にしたい。
そういう人たちと一緒に、
つくっていきたいと思っています。
あまりは、綺麗に整えられた場所ではなくて、
まだ途中にある場所です。
この場所で実際に何が起きているのか。
リアル現場の話についてはまた書こうと思います。
