手と思想の職人録
前編では、多能工という働き方について書きました。
現場を途中で手放さないこと。
分けないこと。
自分ごととして受け取ること。
その奥にある考えについて、もう少し書いてみます。
手戻りや遠回りは、
世間では効率の悪さとして扱われがちです。
最短距離で終わらせること。
無駄なく進めること。
時間をかけないこと。
それが良しとされる空気があります。
わかります。でも僕には違和感があります。
効率の名のもとに、人の重みを奪いたくありません。
失敗や立ち止まり、
やり直しや遠回り。
それは、その人の人生にとって必要な重みだと思っています。
現場も同じです。
依頼する側と受ける側。
プロと素人。
お金を払う側と受け取る側。
その役割で向き合った瞬間、
関係は機能的になります。
でも、機能的であることと、
人と人であることは、同じではない。
僕はできれば、
仕事の関係であっても、人と人でいたい。
生涯付き合っていくかもしれない関係として、
現場に立ちたいのです。
その前提に立つと、
現場は作業の場ではなく、成長の場になります。
僕は成長を諦めません。
好きなことに夢中でいるだけなのですが、
その結果として、技術は磨かれ、判断は深まり、経験は積み重なります。
それは僕のためだけではありません。
目の前のお客さんの安心につながりますし、
職人不足と言われるこの社会にとっても、
確実に意味のある積み重ねになるはずです。
だからこそ、試行錯誤や遠回りを、
単なる無駄として扱いたくない。
それは無駄ではなく、未来への投資であり、やがて共有の財産になるものだと思っています。
このスタンスを、実際の現場で許容することは簡単ではないと思います。
でもその姿勢を実践し続けることが、
僕にとっての共育であり、
一人の職人としての責任だと考えています。
多能工という言葉は、「なんでもできる人」という意味で使われることが多いです。
大工もやる。
電気も触る。
水道も直す。
内装も仕上げる。
たしかに間違ってはいません。
でも、僕の中では少し違います。
多能工とは、現場を途中で手放さないことだと思っています。
誰かの工程に受け渡して終わりではなく、誰かの後始末をする前提でもなく、最初から最後まで、自分の手で触れていく。
そのほうが、気持ちが楽だからです。
身体は大変でも、責任の所在がはっきりしているほうが、心は静かでいられます。
床を直していると、壁の歪みに気づく。
配線を触っていると、家の増改築の歴史が見えてくる。
水道の詰まりを直していると、暮らしの癖が見えてくる。
分業では、そこまで踏み込まなくても済みます。
でも僕は、踏み込んでしまうのです。
「そこが見えてしまったからには、やるか」
その繰り返しで、今の働き方になりました。
分けられると、どこか落ち着かない。
途中で終わると、少し引っかかる。
それは感情的なこだわりでもありますが、同時に、自分なりの理屈でもあります。
住まいは、部品の集合ではなく、時間と暮らしの重なりだからです。
だから僕は、なるべく分けません。
木に触れ、
水に触れ、
電気に触れ、
埃に触れる。
全部がつながっている感覚の中で、仕事をしていたいのです。
一人で完結するというのは、孤立することではありません。
「この家のことを、自分ごととして受け取る」
という姿勢のことだと思っています。
この働き方は、効率の話だけではありません。
その奥には、もう少し別の考えがあります。
それについては、後編で書いてみたいと思います。
