「手と思想の職人録」 noteの方が読みやすいです。https://note.com/kurashikku_work
ナフサの影響が、もう現場に出ています。これから影響が出る状況ではなくて、もう既に出ている。材料の値上がりというレベルの話ではなくて、仕事そのものの前提が崩れ始めています。
実際に起きていることを書きます。
トイレのリフォームを受注しました。契約前日の時点で、商品の在庫も確認できていて、仕入値も把握していた。翌日の商談で受注して、そのまま問屋に発注をかけたら、メーカー在庫欠品、入荷目処未定という返答でした。
一晩で在庫が消えています。
施主には、待つか、キャンセルするか、商品を選び直すかの判断をお願いするしかない。でも仮に待ったとしても、入荷時点の時価での仕入になる可能性が高く、見積もりの前提は成立しない。場合によっては逆鞘になる。
ただ今回は、契約前にそのリスクを共有できていません。だから追加請求はできない。こちらで負担するしかない。
結果的には、店舗を何件か回って店頭在庫を見つけて直接買い付けて商品を確保しました。ただ、その時点で仕入コストは上がっていて、利益は削られています。
「在庫はある」という前提が、一晩で崩れました。
別の現場の話です。
来月は、すでにたくさんの現場で予定がパンパンに埋まっています。ただ、その日程は全部「このくらいには材料が入るだろう」という見込みで組んでいます。
そして今は、トイレやUB、キッチンのような住設だけじゃなくて、塗料、クロス、配管材、養生材みたいな副資材まで含めて、納期未定のものが増えています。問屋に発注しても納期回答が得られないから、ホームセンターやプロショップの陳列棚からも日に日に商品が消えて入荷待ちとなっています。
建設業は工程の順序があります。配管材が入らなければ、その後の内装や住設には進めない。仮に住設だけ先に仕入れて着工しても、配管材が足りなければ完工できない。その場合、売上は立たないのに仕入れの支払いだけが先に来る。
これが複数現場で同時に起きたら、普通に資金が回らなくなります。
一件の遅れで済む話ではなくて、ひとつズレると他の現場も連鎖して崩れる。いまはそういう状態です。
どうすればいいのか。
正直、現時点では明確な打ち手はありません。
ただ、構造としてはコロナ初期にかなり近いと感じています。情報が錯綜していて、何が正しいのか分からない。先が読めない。明確な方針もない。
違うのは、今回はすでに生活に直結する影響が出ている状態で始まっていることです。
待つか、動くか、止めるか。
判断はすべて自分に返ってきます。
ここで分かれるのは、自分がコントロールできることと、できないことです。世界情勢はどうにもならない。でも、その中でどんな前提で仕事を受けるか、どこまで引き受けるかは自分で決めるしかない。
今まで通りの前提で見積もりを出して仕事を受けるやり方は、もう通用しないと思っています。
資材高騰の話は、今回が初めてではありません。
ここ数年を振り返ると、2020年のコロナをきっかけに物流や生産が不安定になり、2021年にはいわゆるウッドショックで木材が急騰しました。その後も2022年以降は資材全体の価格上昇と円安が重なって、仕入コストは上がり続けています。
その流れの中で、すでに持たなくなっている業者は実際に出ています。
今回のナフサショックは、それとは別の原因で起きているものですが、結果としては同じ方向に作用しています。これまで積み重なってきた不安定な状態に、さらにもう一段負荷がかかっている状況です。
この流れの延長で考えれば、採算割れや資金ショートで持たなくなる業者は確実に増えていくと思っています。仕事はあるのに回らない、完工できない、支払いだけが先に来る。そういう崩れ方が広がっていくのは時間の問題だと感じています。
間も無く、建設業だけでなく他のサービス業にも影響が広がって、あらゆる業種で営業そのものが難しくなるところも出てくると思います。
この状況が一時的なのか、長引くのか、それともこの状況が当たり前の世の中になるのかは分かりません。
でも、目の前の生活がかかっているから、分からないままでも動くしかない。
遠い場所で起きていることが、今は目の前の現場と生活に直結している。仕事の受け方も見積もりの出し方も組み直す必要があると感じています。
自分は、曖昧な前提のまま仕事は受けません。納期や価格が読めないものは、そのリスクを最初から共有した上で引き受けるか、成立しないと判断すれば断ります。不確定な前提のまま引き受けて、あとから調整するやり方は、いまの状況では成立しないと思っています。
これから状況がどう転ぶかは分からないですが、仕事も生活も、関わる人との深い対話と、強いパートナーシップが求められる時代になっていると感じます。
DIYでやるか、プロに頼むか。
ここ数年で、お客さんに相談されたり、
話題に出ることが多くなってきました。
結論から言うと、
DIYとプロは、
やっていることが同じに見えて、
中身は全く別のものです。
例えば、水栓交換。
うまくいけば、30分で終わる作業です。
実際、DIYで問題なく交換できるケースも多いと思います。
だから、
「これなら自分でできるじゃん」
そう思うのも、全然おかしくないです。
でも、ここにひとつ大きなズレがあります。
現場って、
何も起きなければ簡単なんです。
問題は、
“何かが起きた時”です。
水栓交換でも、
・固着して外れない
・配管が劣化していて折れる
・止水できない
・サイズや規格が微妙に合わない
こういうこと、普通にあります。
その場合、30分の作業が、
平気で3時間、4時間かかる工事になります。
DIYだと、こういう状況に出くわす確率は低いです。
だからこそ、
「意外と簡単だった」
という体験になりやすい。
でも、プロは違います。
何百件、何千件とやっていると、
そういう“ハマる現場”には、必ず定期的に出くわします。
これは、運が悪いとかじゃないです。
普通に起こることです。
そして、
そういう時にどうするか。
ここが、DIYとプロの決定的な違いです。
プロは、
どんな状態でも、終わらない現場はないと分かっています。
対処するための引き出しも、経験もあります。
一方で、
DIYレベルの経験だと、
そこで止まる可能性が高いです。
しかも、内容によっては普通に危険です。
電気、水道、ガス。
このあたりは、
最悪、事故や賠償に繋がる領域です。
プロは、
そういうリスクと隣り合わせの状態が“平常運転”です。
この差は、かなり大きいです。
なので、
DIYが悪いという話ではなくて、
領域の見極めが必要なんだと思っています。
内装仕上げのように、
失敗しても中断したり、やり直しできたりするものは、DIYでやってみてもいいと思います。
でも、
大工、電気、水道、ガス。
このあたりは、
やるならそれなりの覚悟が必要です。
「できるかどうか」じゃなくて、
“何か起きた時に対処できるか”
ここで判断した方がいいです。
ここから、施主支給の話です。
これも最近かなり増えています。
結論から言うと、
成り立つケースもありますが、
前提の理解がないと、結構危険です。
よくあるのが、
「商品は自分で買うので、取付だけお願いします」
というパターン。
これ、一見シンプルなんですが、
実際はそんなに単純じゃないです。
例えば、エアコン。
量販店で買って、
いざ工事当日。
「これ、取り付けできません」
これ、普通にあります。
物理的に無理というより、
追加工事をしないと成立しない、という意味です。
・配管のルートが取れない
・穴位置が合わない
・電源条件が違う
こういうことは、珍しくないです。
なぜ起きるかというと、
商品選定の段階で、
現場条件を踏まえた判断がされていないからです。
プロは、
商品を選ぶ時点で、
・現場に納まるか
・必要な工事は何か
・予算とのバランス
ここまで全部見ています。
だから、
リフォームで選べる商品って、実は結構限定されます。
条件を全部クリアできるものだけを、絞っているからです。
施主支給を成立させるには、
これと同じレベルの判断が必要になります。
・図面を読める
・現場を想像できる
・工事工程を組める
ここまでできて、初めて成立します。
逆に言うと、
ここが抜けた状態で施主支給をすると、
・追加工事が発生して高くなる
・そもそも取付できない
・余計な手間が増える
こういうことが普通に起こります。
結構な確率でハマります。
ここも、ひとつ大事なことがあります。
親切な業者であれば、
事前に施主支給のリスクはちゃんと説明してくれます。
できればやめた方がいい、という話も含めて。
一方で、
あとから施主側に責任や負担を求めてくるケースも、
実際かなり多いです。
施主支給は、
ちゃんと打ち合わせをして、
どこまでを誰が持つのかを整理した上で契約しないと、
普通にトラブルになります。
内容をちゃんと知ると分かるんですが、
施主支給って、
実はそこまでメリットがある話でもないです。
極端に言えば、
プロと同じレベルで判断や段取りができるなら、
その分安くなる、というだけの話です。
逆にそこができない場合は、
結果的に高くついたり、
余計な負担が増えることの方が多いと思います。
ここ、実際にあった話です。
床材とクロスの張り替えで、
「余っている材料があるので、施主支給でやってほしい」
というご相談がありました。
数量は足りている、という前提で、
現調やその事前確認の手間を差し引いて、少し安く引き受ける形です。
問題なく終われば工賃も材料も安く納まり、良いかたちで終わる現場でした。
結果として、材料自体は足りていました。
ただ、
プロの感覚でいうと、
“足りていない状態”でした。
どういうことかというと、
材料って、ただ枚数が足りていればいいわけじゃなくて、
割り付けやカットロス、
多少のミスも含めて、余裕を持って用意するのが前提なんです。
それがギリギリだと、
納めるために無理な加工が必要になったり、
割り付けをかなりシビアに計算しないといけなくなる。
結果的に、
1日で終わる想定だった工事が、終わらなくなりました。
こちらとしては、
追加で半日分の人工をいただけないか相談したんですが、
そこがトラブルになりました。
最終的には、
仕上がりを崩すわけにもいかないので、
追加はいただかずに対応しましたが、
取引はそれきりになりました。
あとから思うと、
事前のすり合わせが足りなかったとも思います。
ただ、
そこまで踏み込んで事前に確認するなら、
その分のプランニングや判断の手間は、
結局どこかに乗ってきます。
つまり、
施主支給にしたからといって、
大きく安くなるわけではない、ということです。
こういうズレって、
材料だけじゃなくて、
「素取り替えのつもりが、実際は配管の切り回しが必要だった」
みたいな形でも、普通に起こります。
DIYも、施主支給も、
やってはいけないとは思っていません。
ただ、
どこまでを自分で引き受けるのか。
そこを考えずにやると、
ただの運任せになります。
それは、
あまりおすすめできないです。
やるなら、
コストカット目的ではなくて、
趣味やこだわりのカスタマイズとしてやった方がいいと思っています。
そのための対価を支払う前提で、
プロに相談したり、監督してもらう形を取る。
その方が、結果的に安全ですし、
無駄な遠回りもしなくて済みます。
施主支給やDIYは、
コストカットのための選択肢ではないと、
僕は思っています。
正解って、なんなんだろうなって、最近よく思っています。
現場でもよく聞かれます。これで合ってますか、とか。このやり方が正解ですか、とか。
自分も、昔はかなりそういうのを気にしていました。なるべく正しい方を選びたいし、変なことはしたくないし、遠回りもしたくない。だから、正解を知ってから動きたい、みたいな感覚がありました。
でも、やっているうちに、なんか違うなと思うことが増えてきて。
その時はこれが正解だと思ってやったことが、あとから見ると全然違ったりします。別の現場では通用しなかったり、人が変わると評価がひっくり返ったりする。
さっきまで正しかったはずなのに、っていう感覚になることがあるんですよね。
例えば、あるやり方でうまくいったとしても、条件が少し変わるだけで全然ダメになることもあるし、逆に、あまり良くないと思っていた方法が、あとから見ると一番良かった、みたいなこともある。
そういうのを何回も見ていると、
正解って、最初から決まってるものではないと思っています。少なくとも、自分が見てきた中では、そういうものには一度も出会っていません。
なんていうか、あとから「それが正解だった」って言われてるだけで、その時は誰も分かってなかったんじゃないか、みたいな感覚があります。
例えば、少し極端な話かもしれませんが、戦争に正解はあるのか、とか。どちらが正しいのか、とか。こういう問いに、はっきり答えを出せる人って、本当にいるんでしょうか。
時代背景や経緯、関わった人それぞれの立場や事情まで辿っていくと、単純に正しいか、間違っているかでは分けきれない気がします。
殺人事件もそうです。もちろん、やってはいけないことだという前提はある。でも、その背景に何があったのかまで含めて考えた時に、それを一言で正解・不正解と切り分けることに、少し引っかかることがあります。
法律やルールや常識も、絶対的なもののように見えて、時代や場所によって変わっていくものです。そういうものの上で判断されていることが、一律に変わらない正解と言い切れるのか。
自分は、まだよく分かっていません。
というか、正解という言葉は、そんな万能に使える言葉じゃなくて、かなり限定的なことにしか使えないものなんじゃないかと感じています。例えば、1+1=2。はい正解、みたいな。
そういう、答えが最初から決まっているものに対しては使えるけど、現実の中で起きていることに対して、同じ感覚で「正解」を当てはめようとすると、どこか無理が出てくる。
それでも、人は正解を欲しがるし、正解がある前提で考えることに慣れている気がします。
学校でも、仕事でも、評価されるのは「正しく答えたかどうか」で、考えた過程よりも答えの方が重く見られることが多い。だから、正解を知ろうとするし、外さないように動くし、できるだけ間違えないルートを選ぼうとする。
それ自体は悪いことではないと思います。効率もいいし、安心もできる。
でも、そのまま続けていくと、気づいたら、自分で考えなくても生きていける状態になることもある。
選ぶことには慣れているけど、決めることには慣れていない、みたいな。これって、少し怖いなと思います。
用意された選択肢の中から選び続けることと、何もないところから自分で決めることは、似ているようで全然違うので。
正解を外したくないという気持ちが強くなると、そもそも選ばなくなることもある。失敗しそうならやらない、とか。間違えそうなら手を出さない、とか。
それって、間違えていないように見えて、何も起きていないだけなんじゃないか、と思うこともあります。
自分の中では、迷いながら選んだこととか、うまくいかなかったことの方が、後から残っていることが多いです。その時は間違いだったと思っていても、あとから見たら、あれがあったから今がある、と思えることがある。
逆に、その時「正解っぽいもの」を選んだことの方が、何も残っていないこともあります。
そう考えると、正解かどうかよりも、どう向き合ったかの方が大事なんじゃないかと思っています。
ちゃんと考えたか。ちゃんと迷ったか。ちゃんと選んだか。
その積み重ねが、あとから自分の中で「これでよかったのかもしれない」と思えるものになるだけで、最初から正解があったわけではないのかもしれません。
だから、正解を探すな、という話ではなくて、正解を前提にしすぎない方がいいんじゃないか、という感覚です。
分からないまま考えるとか、決まっていない中で選ぶとか、そういうのを避けないこと。その方が、遠回りに見えるかもしれないけど、あとからちゃんと、自分の足で立てるようになる気がしています。
もし、人類が誕生してから今まで、ずっと変わらない正解があるなら、自分も知りたいです。
でも、今のところは、まだ見つかっていません。
だから、今日も、分からないまま考えています。
