手と思想の職人録

2026-02-25 02:45:00

前編では、多能工という働き方について書きました。

現場を途中で手放さないこと。
分けないこと。
自分ごととして受け取ること。

その奥にある考えについて、もう少し書いてみます。

手戻りや遠回りは、
世間では効率の悪さとして扱われがちです。

最短距離で終わらせること。
無駄なく進めること。
時間をかけないこと。

それが良しとされる空気があります。

わかります。でも僕には違和感があります。

効率の名のもとに、人の重みを奪いたくありません。

失敗や立ち止まり、
やり直しや遠回り。

それは、その人の人生にとって必要な重みだと思っています。

現場も同じです。

依頼する側と受ける側。
プロと素人。
お金を払う側と受け取る側。

その役割で向き合った瞬間、
関係は機能的になります。

でも、機能的であることと、
人と人であることは、同じではない。

僕はできれば、
仕事の関係であっても、人と人でいたい。

生涯付き合っていくかもしれない関係として、
現場に立ちたいのです。

その前提に立つと、
現場は作業の場ではなく、成長の場になります。

僕は成長を諦めません。

好きなことに夢中でいるだけなのですが、
その結果として、技術は磨かれ、判断は深まり、経験は積み重なります。

それは僕のためだけではありません。

目の前のお客さんの安心につながりますし、
職人不足と言われるこの社会にとっても、
確実に意味のある積み重ねになるはずです。

だからこそ、試行錯誤や遠回りを、
単なる無駄として扱いたくない。

それは無駄ではなく、未来への投資であり、やがて共有の財産になるものだと思っています。

このスタンスを、実際の現場で許容することは簡単ではないと思います。

でもその姿勢を実践し続けることが、
僕にとっての共育であり、
一人の職人としての責任だと考えています。

2026-02-24 18:31:00

多能工という言葉は、「なんでもできる人」という意味で使われることが多いです。

大工もやる。
電気も触る。
水道も直す。
内装も仕上げる。

たしかに間違ってはいません。

でも、僕の中では少し違います。

多能工とは、現場を途中で手放さないことだと思っています。

誰かの工程に受け渡して終わりではなく、誰かの後始末をする前提でもなく、最初から最後まで、自分の手で触れていく。

そのほうが、気持ちが楽だからです。

身体は大変でも、責任の所在がはっきりしているほうが、心は静かでいられます。

床を直していると、壁の歪みに気づく。
配線を触っていると、家の増改築の歴史が見えてくる。
水道の詰まりを直していると、暮らしの癖が見えてくる。

分業では、そこまで踏み込まなくても済みます。

でも僕は、踏み込んでしまうのです。

「そこが見えてしまったからには、やるか」

その繰り返しで、今の働き方になりました。

分けられると、どこか落ち着かない。
途中で終わると、少し引っかかる。

それは感情的なこだわりでもありますが、同時に、自分なりの理屈でもあります。

住まいは、部品の集合ではなく、時間と暮らしの重なりだからです。

だから僕は、なるべく分けません。

木に触れ、
水に触れ、
電気に触れ、
埃に触れる。

全部がつながっている感覚の中で、仕事をしていたいのです。

一人で完結するというのは、孤立することではありません。

「この家のことを、自分ごととして受け取る」

という姿勢のことだと思っています。

この働き方は、効率の話だけではありません。

その奥には、もう少し別の考えがあります。

それについては、後編で書いてみたいと思います。

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