手と思想の職人録 (noteでも読めますhttps://note.com/kurashikku_work)

2026-03-28 22:55:00

まず、

「あまりって何してるんですか?」と聞かれることがあります。

 

正直、

一言ではうまく説明できません。

 

古民家再生ですか?と聞かれれば、

そうです、とも言えるし、

いや、ちょっと違います、とも思っています。

 

実際にやっていることだけ見れば、

古民家を直したり、

畑をいじったり、

何かを作ったりしています。

 

でも、

それが本質ではないんです。

 

現場にいると、

もっと違うことが起きています。

 

例えば、

 

誰かが初めてノコギリを持って、

なかなか切れなくて止まっている時間。

 

誰かが、

何をしていいか分からずに、

ただその場に立っている時間。

 

誰かが、

やってみたいけど一歩出れなくて、

周りを見ている時間。

 

そういう時間が、

普通にあります。

 

それと、もうひとつ。

 

あまりに来た人は、

だいたい最初にこう言います。

 

「何すればいいですか?」と。

 

この言葉に、

自分はずっと違和感があります。

 

それと、似ているようで少し違う言葉もよく聞きます。

 

「どうすればいいですか?」とか、

「こんな感じでいいですか?」という確認です。

 

何すればいいですか?に比べると、

やり方や納め方の確認ですよね。

 

でもこれも、

正解を選ばなきゃいけないとか、

間違えたくないとか、

そういう感覚から出てきている言葉なんだと思います。

 

あまりでは、

誰が上とか下とか、

役割とか立ち位置とか、

そういうことを言葉で決めたことはありません。

 

やり方も、納め方も、

こうしなさいと指定したこともありません。

 

でもそれでも、

人は自然と、

自分の立ち位置みたいなものを感じ取って、

勝手に決めてしまう。

 

それが良いとか悪いとかじゃなくて、

そういう力が思っている以上に強く働いているんだと思います。

 

正解とか間違いも、

 

ある人にとっての正解は、

別の誰かにとっては違ったりするし、

 

そもそも、

何に対しての正解なのか、

誰にとっての間違いなのか、

 

全部、

共通の前提があって初めて成立するものだと思います。

 

その前提が無いなら、

 

正解も間違いも、

自分で決めていいものなんじゃないかと、

僕はそう思っています。

 

もちろん、自然なことだと思います。

 

普段の生活や仕事の中では、

求められたことをやるのが当たり前だし、

その方がうまく回る場面も多い。

 

でも、

 

ここでは、

そうじゃなくてもいいんじゃないかと思っています。

 

何をすればいいか、ではなくて、

自分は何がしたいのか。

 

そっちの方を、

見てみてもいいんじゃないかと。

 

やりたいことをやっていいし、

やりたくないなら、やらなくてもいい。

 

少し極端かもしれませんが、

それくらいの感覚でいい場所だと思っています。

 

そして、

 

最初は「何すればいいですか?」と聞いていた人が、

 

だんだん、

自分で動き始めることがあります。

 

やってみたいことをやりたいと言えたり、

言わなくても、勝手に始めていたり。

 

まるで子供みたいに、

自分の感覚に素直に動いている。

 

そういう変化が起きる瞬間を、

何度も見てきました。

 

子供たちを見ていると、

また違う気づきがあります。

 

現地に着くと、

みんな散り散りに走っていって、

好きな場所に消えていきます。

 

家というより、

アスレチックのある公園みたいな光景です。

 

誰かに止められない限り、

「自分はこうしたい」が一番上にある。

 

それが普通です。

 

大人はそうならないですよね。

 

その違いは何なんだろうと、

いつも考えさせられます。

 

自分自身の話で言うと、

 

社会に出てからずっと、

自分は少し子供寄りの感覚で生きているんじゃないかと感じていました。

 

だからこそ、

うまくいかないことや葛藤も多かったです。

 

周りはもっと“大人の感覚”で動いていて、

その中で自分もやろうとしていたから、

ズレが出ていたんだと思います。

 

大人の社会には、

言葉にしなくても存在している「べき」があって、

 

それが当たり前として回っていることに、

ずっと違和感がありました。

 

みんな同じように感じていると思っていたけど、

どうやらそうでもないのかもしれない。

 

最近はそう思うようになりました。

 

だからこそ、

 

勝手に同じだろうと期待するんじゃなくて、

自分の考えや感じていることを、

ちゃんと伝えていこうと思っています。

 

こういう話をしていると、

 

効率だけで見れば、

あまりで起きていることは、

遠回りに見えるかもしれません。

 

慣れている人がやれば、

すぐ終わることばかりです。

 

でも、

あまりでは、

その時間がよく起きます。

 

むしろ、

そこにこそ意味があるんだと思っています。

 

やったことがないことをやるとき、

人はすぐに動けません。

 

でもその中で、

少しずつ何かが動いていく。

 

そしてある瞬間に、

自分で動き出す。

 

ああ、今動いたな、と思う瞬間があります。

 

教えたわけでもないし、

やらせたわけでもない。

 

ただその人の中で、

何かが切り替わった瞬間です。

 

逆に、

すぐに手を出してしまうと、

その瞬間は起きません。

 

早く終わるし、

綺麗に納まるかもしれない。

 

でも、

その人の中では、

何も起きていないまま終わることもある。

 

それがいいとか悪いとかじゃなくて、

ただ違う、という感じです。

 

あまりは、

何かを教える場所でもないし、

何かを作る場所でもない。

 

結果としてそうなっているだけで、

それが目的ではありません。

 

どちらかというと、

 

それぞれが、

それぞれのタイミングで、

何かに触れて、

何かに気づく場所です。

 

そのために、

少しだけ余白があって、

少しだけ時間があって、

少しだけ誰かがいる。

 

それくらいの環境です。

 

正直、

綺麗な話ばかりではありません。

 

進まないこともあるし、

うまくいかないこともあるし、

ただ時間だけが過ぎる日もあります。

 

でも、

それも含めて、

あまりで起きていることです。

 

こういう場所で起きていることを、

どこまで言葉にできるのかは、正直まだ分かりません。

 

でも、

 

できるなら、

ちゃんと届くべき人に届くように、

少しずつでも発信していきたいと思っています。

 

自分でもうまく言葉にできないけど、

どこかに違和感を感じている人や、

 

何かが違う気がしているけど、

まだそれが何なのか分からない、

そんな状態の人にとって、

 

何かのきっかけになればいいなと思っています。

 

自分もそうだったので。

 

またそのうち、書くと思います。

2026-03-28 21:15:00

現場で、よくある瞬間があります。

 

誰かが、止まって見える瞬間です。

 

施主さんだったり、
監督さんだったり、
職人だったり。

 

立場は違うんですが、

似たような空気になることがあります。

 

何かを決めるタイミングで、

ふと止まる。

 

そのとき、周りは少しざわつきます。

 

「どうするんだろう」
「まだ決まらないのかな」

 

そんな空気です。

 

工程もあるし、段取りもあるので、

できれば早く決めてほしい、というのが本音です。

 

だから、

 

「こうした方がいいと思いますよ」とか、
「一旦こっちで進めますか?」とか、

 

少しずつ外から動かそうとする。

 

自分もずっと、そうやってきました。

 

今もやってしまうことがあります。

 

でも、

 

止まって見えるその時間って、

実際には止まっていないんですよね。

 

考えているし、
迷っているし、
決めようとしている。

 

途中なんです。

 

途中だから、止まって見える。

 

これ、当たり前のことなんですが、

現場にいると忘れがちになります。

 

こちら側には、こちら側の時間があるので。

 

今日ここまで進めたいとか、
このままだと納まらないとか、

 

いろんな理由で、

どうしても先に進めたくなる。

 

だから、

 

「そろそろ決めてほしい」と思う。

 

ここにズレがあるんだと思います。

 

で、

 

最近思ったのが、

 

自分は待っているつもりだったけど、

あれは待っていなかったのかもしれないな、ということです。

 

よくよく考えると、

 

自分の中で時間を測っていて、

その中で「まだか」と思っている。

 

そして、その時間を過ぎたら、
声をかけたり、判断を促したりしている。

 

これって、

 

待つというより、

自分の時間に相手を合わせにいっているだけなんじゃないかと。

 

期限を決めて、

その中で動いてほしいと思っている。

 

それは、

 

やっぱり、待つではなくて、

催促なんだと思います。

 

じゃあ、待つって何なのか。

 

まだはっきり言い切れる感じではないですが、

 

相手の感覚に委ねること、なんじゃないかと思っています。

 

自分の時間じゃなくて、
相手の中で流れている時間の方に寄せるというか、

 

そっちに合わせにいく感覚です。

 

ただ、これが難しい。

 

相手のことをちゃんと分かっていないとできないし、

分かったつもりでも、たぶんズレる。

 

想像とか推測だけだと、

どうしても解像度が足りないんですよね。

 

知っているのと、
やったことがあるのとで、

見え方が全然違うのと同じで、

 

その経緯とか感覚を、
自分の中に持っていないと、

どこが「途中」なのかが見えない。

 

だから、

 

ちゃんと待つって、

ただ時間をかけることじゃなくて、

 

どれだけ相手を理解できているか、

そこにかかっている気がしています。

 

たぶん、

 

ちゃんと待てていれば、
出てきたはずの結果もあるし、

 

逆に、

 

自分の感覚で区切ってしまったことで、
出てこなかったものもあるんだと思います。

 

まだなのか、もうすぐなのか。

 

この違い、

今も正直よく分かっていません。

 

でも、

 

たぶん自分は、

思っているより早い段階で区切ってきたんだと思います。

 

本当はもう少し待てたはずの場面で、

手を出してしまっていた。

 

ちゃんと待てていれば、
違う形になっていたものもあったのかもしれません。

 

もう少し、見れるようになりたいなと思っています。

2026-03-21 18:13:00

「あまり」という活動について、

 

これまで、リアルや経緯みたいなものは、あまり書いてきませんでした。

 

ホームページもあるし、インスタもあるし、
どこかで、もう伝わってるんじゃないかって、
少し安心していたのかもしれません。

 

でも、

 

やっぱりそれだけだと、
どうしても「良い部分」だけが見える形になるなと感じています。

 

実際は、そんなに綺麗なことだけではなくて、

 

あまりは、自然にできた場所でもありません。

 

僕の中にずっとあった、
なんとなくの違和感とか、不足みたいなものから始まっています。

 

家族で自然に触れながら過ごせる場所。

遊べて、学べて、体験できて、
なんかこう、心が豊かになるような場所。

 

そういうのが欲しいなと思っていました。

 

でも同時に、

 

それは自分には用意できないものだとも思っていて、
どこかで諦めていたところもありました。

 

そんな中で、

 

同じような感覚を持った人と出会いました。

 

そのときに初めて、

 

一人じゃ無理でも、
誰かとなら、もしかしたらできるかもしれないと思ったんです。

 

資金はゼロでした。

時間も、かなり無理をしないと作れない。

正直、リスクしかないような状況でした。

 

でも、

 

動かないという選択はなかったです。

 

時間って、自分にとってはほとんど命みたいなものなので、
そこで止まることはできませんでした。

 

夢中で物件を探して、
事業計画を立ててプレゼンして、
やっと融資が通って、

 

なんとか手に入れました。

 

そこからは、

 

綺麗事とか理想通り、みたいな感じでは全然なくて、

 

収益化もできていないまま、
身銭を切って、何年も自分たちの負担で維持しています。

 

正直に言うと、

簡単ではないです。

 

むしろ、続けていくほど難しいなと感じることの方が多いです。

 

それでも続けているのは、

 

ここでしか得られないものがあるなと、
やっていて感じているからです。

 

出会いだったり、体験だったり、
うまく言葉にできない余白みたいなものだったり。

 

最初は、完全に自分のために手に入れた場所でした。

 

でも続けていくうちに、

 

同じように、
何かを内に抱えたまま、
諦めている人もいるんじゃないかと思うようになりました。

 

きっかけさえあれば、
誰かと一緒なら動ける人もいるんじゃないかと。

 

だから、まずは身近な人から、
少しずつ声をかけてきました。

 

よく、

 

「古民家再生をやっているんですか?」と聞かれます。

 

僕自身も、そう説明してしまうことがあります。

 

その方がわかりやすいからです。

 

でも正確には、
少し違うというか、
たぶん全然違う気がしています。

 

あまりは、

 

古民家を再生することが目的の場所ではありません。

 

何かを作れる人が集まる場所でもないし、
技術や知識を持っている人が主役になる場所でもありません。

 

もちろん、そういう人たちが来てくれることは多いです。

 

でも、

 

ここで大事にしているのは、
そういうことではなくて、

 

それぞれが持っている、これまでの体験とか感覚です。

 

それは、

 

良いとか悪いとか、
優れているとか劣っているとかではなくて、

 

全部同じ価値だと思っています。

 

同じ人生って一つもないので、

 

その差が、どんなに小さくても、
そこにしかないものがあると思っています。

 

何も持っていない、と思っている感覚も、
ここではそのまま価値になります。

 

自分と同じ背中と、違う背中。

その両方があって、初めて見えるものがあると思っています。

 

僕が「共育」と呼んでいるのは、そういう状態のことです。

 

だから、

 

あまりは、
何かをできる人が集まる場所ではなくて、

 

それぞれがそのままで関わる場所です。

 

ただ、

 

ここにはまだ問題もあります。

 

あまりは、サービスでもボランティアでもありません。

 

本来は、

 

まだ形になっていない何かを持った人たちが集まって、
一緒に支え合いながらつくっていく場所です。

 

でも今は、

 

僕たちが場を用意して、
体験として提供している形に留まっています。

 

それは、

 

ちゃんと説明できていなかったからだと思っています。

 

本当は、

 

「自分もやりたい」
「一人じゃ無理だけど、仲間がいるならやりたい」

 

そう思った人たちが、
自分の意思で関わる場所にしたい。

 

そういう人たちと一緒に、
つくっていきたいと思っています。

 

あまりは、綺麗に整えられた場所ではなくて、
まだ途中にある場所です。

 

この場所で実際に何が起きているのか。
リアル現場の話についてはまた書こうと思います。

2026-03-19 09:40:00

ただ、うどんを食べながら思ったこと。

 

この前、大好きなうどん屋に行きました。

 

気がつけば、もう5年くらい通っている店です。

多いときは、月に2〜3回行っていた時期もあります。

 

4人で行きましたが、
あまり会話もなく、静かにうどんを食べていました。

 

いつも通り、変わらず美味いです。

 

厨房の奥では、
店主が黙々とうどんを作り続けています。

 

同じ場所で、同じ動きで、ずっと作り続けている。

 

たぶん、夢中なんだと思います。

 

もちろん、本当のところはわかりません。

ただ、そうだったらいいなと思いながら、食べていました。

 

もしこの店主にとって、

 

自分が夢中になれることと、
家族への責任や生活が、

 

「うどん」という形で重なっているのだとしたら、

 

すごくいいなと思ったんです。

 

この店には、従業員もけっこういます。

 

みんな黙々と、テキパキと動いています。

 

静かなんだけど、活気がある店です。

 

接客が特別丁寧というわけでもなく、
フレンドリーな雰囲気でもない。

 

でも、嫌な感じは一つもありません。

 

それぞれが、自分の持ち場を
ただ淡々とこなしている。

 

その空気が、すごくいいなと思いました。

 

店主はうどんを作っている。

従業員は店を支えている。

僕たちはうどんを食べている。

 

それぞれが、それぞれの役割を
ただやっているだけなんですが、

 

それが自然に噛み合っている感じがしました。

 

でも考えていくと、

 

その支えている人たちも、
別のところでは誰かに支えられているはずです。

 

僕も同じです。

 

自分がやっている仕事も、
一人では成立しません。

 

家族だったり、
お客さんだったり、
関わってくれる人がいて、

 

はじめて成り立っています。

 

そう考えると、

 

誰かの夢中は、誰かに支えられていて、

その人もまた、別のところで夢中を支えられている。

 

やがてそのバトンは、巡り巡って自分に返ってくる。

 

夢中は、
そうやって循環しているのかもしれないと思いました。

 

美しい構造だなと思います。

 

でもきっと、
特別なことではなくて、

 

こういうことは、
いろんな場所で起きているんだと思います。

 

夢中になれることがまだなくても、

 

身近な誰かの支えになっていれば、

 

そのバトンはどこかで巡って、
また自分に返ってくるのかもしれません。

 

そんなことを考えながら、
うどんを食べていました。

 

いい店だなと思ったのは、
そういうところだったのかもしれません。

 

またそのうち、食べに行くと思います。

2026-03-14 17:54:00

現場で「福田さんは何屋なんですか?」と聞かれると、実は少し困ります。

 

監督さんが施主さんにこう紹介することがあります。

 

「クロス屋の福田さんです。」

 

でも別の現場では、

 

「大工の福田さんです。」

 

と紹介されることもあります。

 

そしてその瞬間、
僕はだいたい少しだけ困ります。

 

僕は何屋なんだろう。

自分でもたまに考えます。

 

多能工、と言えば一番近い気がします。
でも多能工と言うと、

 

「色々できるけど専門ほど深くないのでは?」

 

と余計な心配をかけることがあります。

 

だから実務上は、

 

「大工です」

 

と言っておくことが多いです。

 

でもそれも、少しだけ正確ではない気がしています。

 

昔の大工は、今のように細かく職種が分かれていませんでした。

 

家のことはだいたい大工が見て、
必要に応じて職人を呼びながら現場を納めていた時代があります。

 

今はそこが細かく分業化されています。

 

大工
クロス屋
設備屋
電気屋
塗装屋

 

専門の職人がバケツリレーのように現場に入り、
一つの家が出来上がっていきます。

 

それはそれで合理的な仕組みです。

 

ただ、現場にいると
少し違う景色も見えてきます。

 

僕は住宅のリフォームや修繕の現場で、

 

大工
設備
内装
電気
水道
調査
清掃
施工管理

 

こういう仕事を、状況に応じて自分で組み合わせながら対応しています。

 

だから現場では、

 

クロス屋として紹介される日もあれば、
大工として紹介される日もあります。

 

何屋ですか、と聞かれると困る理由は、
たぶんここにあります。

 

ただ、現場にいると
もっと別のことを考えることが多いです。

 

それは、

 

「この現場の問題はどこにあるんだろう」

 

ということです。

ここで少しだけ、前回の記事で書いたことをもう一度書きます。

 

たとえば、

 

「他社で断られた」
「頼める人が見つからない」
「どうやって解決すれば良いかわからない」
「ヤバいことになってる現場なんですが…」

 

そういう相談が、僕のところにはよく来ます。

 

他社施工の是正工事や、
クレーム解決のような依頼も多いです。

 

現場に入ると、

 

設備の問題なのか
施工の問題なのか
建物の構造なのか
それとも別のところに原因があるのか

 

いろいろな可能性を見ていきます。

 

問題の核になっている部分が見えてくる瞬間があります。

 

「ああ、ここが原因だったのか」

 

そう思えた瞬間、
僕の中ではだいたい答えが見えています。

 

ただ、この“核”というのは
設備の不具合とは限りません。

 

実際の現場では、

 

施工不良ではないのにトラブルになっているケースもよくあります。

 

多くの場合、

 

工事前の打ち合わせ不足
関係者の認識の違い
期待値のギャップ

 

こういうところに原因があります。

 

この場合、
いくら丁寧に工事をやり直しても
根本の解決にはならないことがあります。

 

なぜなら、

 

問題は工事ではなく
「認識のズレ」にあるからです。

 

ここを整理して、
関係者の認識を揃えない限り
本当の意味で現場は納まりません。

 

この業界では、
認識の調整が得意な人はそれほど多くありません。

 

というより、
下請け構造の仕事の流れ自体が
認識のズレを生みやすい構造になっています。

 

僕は工事をしながら
認識の調整もするタイプなので、

 

原因さえ見えれば
だいたい解決までの道筋は見えてきます。

 

だから核を捉えた瞬間に、

 

「これでまた解決したな」

 

と思うのです。

 

こういう仕事を続けていると、
現場の構造が少しずつ見えてきます。

 

ここまでは前回の記事でも書いたことです。

 

そしてもう一つ、
現場で必ずぶつかるものがあります。

 

それが

 

時間と予算

 

です。

 

本当は、

 

時間に余裕があり
予算にも余裕があれば

 

もっと良い選択肢を
いくつも提示できる現場は多いと思います。

 

でも現実の現場では
ほとんどの場合、それがありません。

 

なぜなら

 

余裕には費用がかかるからです。

 

見積もりを比較するとき、

 

余裕を見ている会社の見積もりは
どうしても高く見えます。

 

余裕を見ていない会社の見積もりは
安く見えます。

 

多くの場合、
安い方が選ばれます。

 

でも実は、

 

現場では
「何かが起きる」ことの方が普通です。

 

むしろほぼ必ず起きます。

 

その時どうするか。

 

余裕がない現場では、

 

その場で何とか納める方法を
考えることになります。

 

見えない部分で
妥協やごまかしが生まれることもあります。

 

これは誰か一人が悪いわけではありません。

 

職人も
監督も
営業も

 

みんなこの構造の中で
調整しながら仕事をしています。

 

現場が本当に良い形で納まるかどうかは、

 

この調整をしている人の手腕に
大きく左右されます。

 

管理や調整をする人の存在は、
想像以上に重要です。

 

その人件費を削るというのは、
実はかなり大きなリスクを伴います。

 

個人のお客様が
職人や施工業者に直接依頼する場合も、

 

この部分は
少し意識しておいた方がいいかもしれません。

 

調整のプロがいるかどうか。

 

それだけで
現場のリスクはかなり変わります。

 

こういうことを考えながら、
今日も現場で仕事をしています。

 

何屋なんだろう、と
たまに自分でも思います。

 

でも結局、

 

目の前の現場を
ちゃんと納めること。

 

僕の仕事は
たぶんそれなんだと思います。

 

こういう構造の中で、現場は動いています。

 

だから僕は、何屋と呼ばれるかよりも、
目の前の現場をどう納めるかを考えて仕事をしています。

 

また現場の話は、そのうち書くと思います。

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