「手と思想の職人録」 noteの方が読みやすいです。https://note.com/kurashikku_work
まず、
「あまりって何してるんですか?」と聞かれることがあります。
正直、
一言ではうまく説明できません。
古民家再生ですか?と聞かれれば、
そうです、とも言えるし、
いや、ちょっと違います、とも思っています。
実際にやっていることだけ見れば、
古民家を直したり、
畑をいじったり、
何かを作ったりしています。
でも、
それが本質ではないんです。
現場にいると、
もっと違うことが起きています。
例えば、
誰かが初めてノコギリを持って、
なかなか切れなくて止まっている時間。
誰かが、
何をしていいか分からずに、
ただその場に立っている時間。
誰かが、
やってみたいけど一歩出れなくて、
周りを見ている時間。
そういう時間が、
普通にあります。
それと、もうひとつ。
あまりに来た人は、
だいたい最初にこう言います。
「何すればいいですか?」と。
この言葉に、
自分はずっと違和感というか抵抗があります。
そりゃそうですよねと思うし、でも同時に、そうじゃないんだよな、、、という一方的な期待があります。
それと、似ているようで少し違う言葉もよく聞きます。
「これどうすればいい?」とか、
「こんな感じでいいの?」という確認です。
何すればいい?に比べると、
やり方や納め方、仕上がりとかの確認ですよね。
でもこれも、広く見ればどれも同じスタンスから出てくる言葉だなと思っています。
なんの話かと言うと、立ち位置とか役割の話です。自分のポジションだけでなく他人のポジションまで、それぞれが独自の解釈で汲み取って、無意識に決めてしまってないか?ということです。
イメージだと、無意識に上下関係や指示系統の組織図的なテンプレートがいくつかあって、それに自分と他人を勝手に配置している感じです。そういう関わり方や空間の在り方が、すごく嫌いなんです。
他にも、正解があることだと思い込んでいたり、正解を選ばなきゃいけないと思っていたり、間違えちゃダメだと思っていたり、そういうのも無意識に潜んでないか?と感じます。
あまりで手を動かす先に、明確な完成形というか、ゴールというか、そういうガチっと決まった目標みたいなものはありません。
これは前提として関わる人にちゃんと言葉にして伝えないとわかるわけないよなと思うのですが、それがまた指示になってしまうことを恐れています。
なんでやりたいようにやっちゃダメなの?
正確も失敗も自分で決めていいんじゃないの?
自分自身がずっとそうやって生きてきているから、なんでデフォルトの状態で「何すればいい?」とか「こんな感じでいい?」みたいな言葉が出てくるんだろう?と抵抗があるわけです。
あまりでは、
誰が上とか下とか、役割とか立ち位置とか、
そういうことを言葉で決めたことはありません。
やり方も、納め方も、
こうして欲しいと指定したことはありません。
でもそれでも、
ほとんどの人は自然と自分の立ち位置みたいなものを感じ取って、勝手に決めてしまう。
正解とか間違いも、
ある人にとっての正解は、
別の誰かにとっては違ったりするし、
そもそも、何に対しての正解なのか、誰にとっての間違いなのか、全部、共通の前提があって初めて成立するものだと思います。
その前提が無いなら、正解も間違いも、
自分で決めていいものです。
僕はそう思っています。
もちろん、自然なことだと思います。
普段の生活や仕事の中では、
上下左右に関係性があって、その中で求められることをやるのが普通だし、それに慣れているからです。
でも慣れすぎて、そうじゃなくていい環境に入った時に、そうじゃないということに気がつけない。
むしろ、そんな環境は無いという無意識を感じます。
何をすればいいか、ではなくて、
自分は何がしたいのか。
そっちの方を見た方がいいんじゃないかと。
やりたいことをやっていいし、
やりたくないなら、やらなくてもいい。
少し極端かもしれませんが、
それくらいの感覚でいいと思っています。
少なくともあまりという場所においては、そういうスタンスがしっくりきます。
そんなあまりの空間にいると、こんなことがあります。
最初は「何すればいいですか?」と聞いていた人が、
だんだん、自分で動き始めることがあります。
やってみたいことをやりたいと言ったり、
言わなくても、勝手に始めていたり。
まるで子供みたいに自分の感覚に素直に動いている。
そういう変化が起きる瞬間を、何度か見てきました。
子供たちを見ていると、また違う気づきがあります。
現地に着くと、みんな散り散りに走っていって、
好きな場所に消えていきます。
家というより、アスレチックのある公園みたいな光景です。
子供たちは、誰かに止められない限り、
「自分はこうしたい」が一番上にある。
それがデフォルトです。
なんでか大人はそうならないなと。
この違いは何なんだろうと、
いつも考えさせられます。
自分自身の話で言うと、
社会に出てからずっと、
自分は子供寄りの感覚で生きているんじゃないかと感じていました。
だからこそ、
うまくいかないことや葛藤も多かったです。
周りはもっと“大人の感覚”で動いていて、
その中で自分もやろうとしていたから、
ズレが出ていたんだと思います。
特に大人の社会には、
言葉にしなくても存在している「べき」とか「常識」があって、それが当たり前として違和感なく回っていることにずっと抵抗がありました。
みんな同じように感じていると思っていたけど、
どうやらそうでもないのかもしれない。
最近はそう思うようになりました。
だからこそ、
勝手に同じだろうと期待するんじゃなくて、
自分の考えや感じていることを、
ちゃんと伝えていこうと思っています。
こういう話をしていると、
古民家再生としての効率だけで見れば、
あまりでやっていることは、遠回りで非効率だなと思います。
慣れている人がやれば、すぐ終わることばかりです。
でも、あまりではその非効率な時間が多くあって、
そこにこそ意味があると思っています。
やったことがないことをやるとき、
人はすぐに動けません。
でもその中で、
少しずつ何かが動いていく。
そしてある瞬間に、自分で動き出す。
あ、動き始めたかも、と思う瞬間があります。
教えたわけでもないし、やらせたわけでもない。
ただその人の中で、徐々に何かが切り替わっていく瞬間です。
逆に、効率を求めて手を出してしまうと、そういう瞬間は起きません。
早く終わるし、綺麗に納まるかもしれないけど、その人の中では、何も起きない瞬間になる。
それがいいとか悪いとかじゃなくて、
ただ違う、という感じです。
あまりは、
何かを教える場所でもないし、
何かを作る場所でもない。
結果としてそうなっているだけで、
それが目的ではありません。
どちらかというと、
それぞれが、
それぞれのタイミングで、
何かに触れて、
何かに気づいたり、なんか変わる場所です。
そのために、
少しだけ余白があって、
少しだけ時間があって、
少しだけ誰かがいる。
それくらいの環境です。
正直、
綺麗な話ばかりではありません。
進まないこともあるし、
うまくいかないこともあるし、
ただ時間だけが過ぎる日もあります。
お金もかかってます。
でも、
それも含めて、
あまりで起きていることです。
こういう場所で起きていることを、
どこまで言葉にできるのか自信がありません。
でも、ちゃんと届くべき人に届くように、
少しずつでも言葉にして発信していきたいと思っています。
うまく言葉にできないけど、どこかに違和感を感じている人。
何かが違う気がしているけど、それが何なのか分からない人。
そんな人にとって、何かのきっかけになったらいいなと思っています。
あまりのことは、またそのうち書くと思います。
