手と思想の職人録 (noteでも読めますhttps://note.com/kurashikku_work)
前編で、ゾーンの話を書きました。
身体が別の次元に入る感覚。
解像度が上がるとか、処理が変わるとか、
そういう説明もできるけど、
正直うまく言えません。
ただ、明らかにいつもとは違う。
僕はたぶん、昔からアスリート気質でした。
限界までやってみたい。
どこまでいけるのか知りたい。
スポーツで初めてゾーンに入ったとき、
人間って、こんな出力があるんだ、と驚きました。
それと同時に、
無いと思っていた別の次元があることを知りました。
この世界には、表面に見えている設定とは別の層があって、
その瞬間、世界の設定が少し書き換えられた感覚がありました。
ああ、こんな仕組みだったのかもしれない、と。
普段はどこかでブレーキがかかっている感じがあるのに、
そのときだけは、それが外れる。
外れるというより、
本来あるものが解放される感じ。
それが、職人も、同じだった。
これが本当に面白かった。
職人も、こんな世界なのか、と。
ゾーンは、特別な才能の話ではないと思っています。
僕の経験では、必ず積み重ねの先にある。
うまくいかない時間。
苦手だなと思いながらやる作業。
思うように動かない身体。
正直、もういいかな、と思うこともある。
でもやる。
やるしかないからやる、というより、
たぶん、やめられないからやる。
そして、溜めも、合図もない。
本当にない。
何かが高まっていく感じもないし、
「そろそろ来るかも」なんてこともない。
ただ、手を動かしている。
ずっとその延長。
で、気づいたら、もう越えている。
あれ?と思う間もなく、
上書きされている。
前の自分が、少し消えている。
一度上書きされると、
もう前には戻れない。
できない世界には、戻れない。
身体はもうわかっている。
それまでの苦しさが、
急に意味を持ち始める。
あの時間がなければ、
ここには来られなかったんだな、と。
だから僕は、
遠回りとか、無駄とか、
あまり簡単には言えない。
それは無駄ではなく、未来への投資であり、
やがて共有の財産になるものだと思っています。
自分のためだけじゃない。
上書きされた自分は、
次の現場で誰かの役に立つ。
職人が少ないと言われる時代に、
一人でも確実に積み上がっていく。
そのほうが、結果的に、全員の利益になる。
うまく説明できないけど、
そう思っています。
苦しさの延長に、
別の次元がある。
そしてそこは、思っているより面白い。
もしかすると、この構造は仕事だけの話ではないのかもしれません。
また少し、考えてみたいと思います
技術は、努力の延長線上にあるけれど、理解で掴めるものではない。
ある臨界点を越えて、身体が別の次元に入ったとき、気づけば掴まれていることがある。
これは理屈ではなく、体験として知っていることです。
最初にそれを知ったのは、スポーツの試合中でした。
シュートを打つ前から、100%入るとわかる。
残り時間が少ないはずなのに、時間がほとんど進んでいないように感じる。
視界は少し狭くなり、周囲には靄がかかったように見える。
必要なものだけが鮮明で、すぐ目の前にある。
近くに人がいるのはわかる。
でもその人が動いているのか止まっているのかもよくわからない。
というより、関係ない。
判断はできるけど、判断する必要がない。
身体は自動操縦で、ゴールへ向かう。
ゴールはいつもより大きく、近くに見える。
そこにボールを“置くだけ”で入るとわかっている。
疲れも呼吸も感じない。
その瞬間、同時に理解していることがありました。
この状態は永遠には続かない。
いつ終わるかはわからない。
でも、いま確実に“入っている”。
そしてもう一つ。
絶対に存在しているはずの「時間」という構造の外に、
別の構造があるのではないか、という感覚。
夢ではありません。
完全に覚醒している。
それでも、明らかにいつもの世界ではない。
そのとき思いました。
この世界は自分が思っていたよりも、リアルではないのかもしれない。
それがまさか、職人の現場でも起きるとは思っていませんでした。
ある作業がどうしても掴めない。
練習しても上手くできない。
疲れるし、正直好きではなかった。
過去一番の施工量。
体力も限界。
納期も迫っている。
ヒーヒー言いながら作業をしていたとき。
その時は前触れもなく訪れました。
一連の動作のなかで、継ぎ目なく、すっと別の次元に切り替わる感じ。
すぐに思い出しました。
「まじか、ゾーンに入った」
スポーツのときと同じ感覚。
でも今回は勝負ではなく、能力そのものが拡張するタイプのゾーンでした。
技術が、もう習得されている。
思い通りに、美しく、速く、楽に動ける。
身体は踊るように動き、作業はまるでダンスのようでした。
さっきまで苦しかったはずなのに、苦しさがどこにもない。
視界は少し狭い。
でも必要なものは完璧に見える。
時間は進んでいるはずなのに、
その外側にいるような感覚。
この状態も、永遠ではないとわかっている。
でも、確実に入っている。
そしてその日を境に、その作業は苦手ではなくなりました。
できなかった頃の身体感覚を、思い出せなくなったのです。
もし、同じ五感を使っているのに、状態によって世界の見え方が変わるのだとしたら。
普段、自分が「現実」と呼んでいるものは、本当に固定された世界なのでしょうか。
音も、色も、距離感も、時間も。
状態が変わると、確実に変わる。
ゾーンを経験すると、そんな問いが自然と立ち上がります。
考えていることは、まだまだ尽きません。
また書くと思います。
前編では、多能工という働き方について書きました。
現場を途中で手放さないこと。
分けないこと。
自分ごととして受け取ること。
その奥にある考えについて、もう少し書いてみます。
手戻りや遠回りは、
世間では効率の悪さとして扱われがちです。
最短距離で終わらせること。
無駄なく進めること。
時間をかけないこと。
それが良しとされる空気があります。
わかります。でも僕には違和感があります。
効率の名のもとに、人の重みを奪いたくありません。
失敗や立ち止まり、
やり直しや遠回り。
それは、その人の人生にとって必要な重みだと思っています。
現場も同じです。
依頼する側と受ける側。
プロと素人。
お金を払う側と受け取る側。
その役割で向き合った瞬間、
関係は機能的になります。
でも、機能的であることと、
人と人であることは、同じではない。
僕はできれば、
仕事の関係であっても、人と人でいたい。
生涯付き合っていくかもしれない関係として、
現場に立ちたいのです。
その前提に立つと、
現場は作業の場ではなく、成長の場になります。
僕は成長を諦めません。
好きなことに夢中でいるだけなのですが、
その結果として、技術は磨かれ、判断は深まり、経験は積み重なります。
それは僕のためだけではありません。
目の前のお客さんの安心につながりますし、
職人不足と言われるこの社会にとっても、
確実に意味のある積み重ねになるはずです。
だからこそ、試行錯誤や遠回りを、
単なる無駄として扱いたくない。
それは無駄ではなく、未来への投資であり、やがて共有の財産になるものだと思っています。
このスタンスを、実際の現場で許容することは簡単ではないと思います。
でもその姿勢を実践し続けることが、
僕にとっての共育であり、
一人の職人としての責任だと考えています。
多能工という言葉は、「なんでもできる人」という意味で使われることが多いです。
大工もやる。
電気も触る。
水道も直す。
内装も仕上げる。
たしかに間違ってはいません。
でも、僕の中では少し違います。
多能工とは、現場を途中で手放さないことだと思っています。
誰かの工程に受け渡して終わりではなく、誰かの後始末をする前提でもなく、最初から最後まで、自分の手で触れていく。
そのほうが、気持ちが楽だからです。
身体は大変でも、責任の所在がはっきりしているほうが、心は静かでいられます。
床を直していると、壁の歪みに気づく。
配線を触っていると、家の増改築の歴史が見えてくる。
水道の詰まりを直していると、暮らしの癖が見えてくる。
分業では、そこまで踏み込まなくても済みます。
でも僕は、踏み込んでしまうのです。
「そこが見えてしまったからには、やるか」
その繰り返しで、今の働き方になりました。
分けられると、どこか落ち着かない。
途中で終わると、少し引っかかる。
それは感情的なこだわりでもありますが、同時に、自分なりの理屈でもあります。
住まいは、部品の集合ではなく、時間と暮らしの重なりだからです。
だから僕は、なるべく分けません。
木に触れ、
水に触れ、
電気に触れ、
埃に触れる。
全部がつながっている感覚の中で、仕事をしていたいのです。
一人で完結するというのは、孤立することではありません。
「この家のことを、自分ごととして受け取る」
という姿勢のことだと思っています。
この働き方は、効率の話だけではありません。
その奥には、もう少し別の考えがあります。
それについては、後編で書いてみたいと思います。
