手と思想の職人録
自分が不安定であることを認めたとき、
少しだけ、不安もありました。
信念や大切にしていた軸が、
一瞬で書き換わることもある。
そういうことになる。
じゃあ、自分とは何なんだろう。
どんな人間なんだろう。
自分のアイデンティティが、
少し曖昧になった感じがしました。
でも、そこで気づいたことがあります。
「振れている」と認識できるということは、
そこに基準があるということ。
振れ幅だとわかるということは、
どこかに軸がある。
もし本当に軸がなければ、
振れていることすらわからない。
そう考えたとき、
少し安心しました。
自分が揺れていると感じるその瞬間に、
実は軸はちゃんと存在している。
揺れていることを、
自分が認知しているから。
それがわかったとき、
不安は少しずつ消えていきました。
むしろ逆でした。
振れ幅があるからこそ、
自由に動ける。
軸を見失わなければ、
どれだけ振れてもいい。
上にも下にも、
右にも左にも。
大きく振れれば振れるほど、
見える景色も増えていく。
ここで、もう一つ腑に落ちたことがあります。
ずっと「円」のイメージで考えていました。
中心があって、
そのまわりをぐるぐる回る。
でも、それだと何か足りない。
動いているようで、
進んでいない感じがしていた。
そこに時間が加わったとき、
全体像が少し立体的に見えました。
中心と振れ幅、
そして時間。
それは円ではなく、
スパイラルでした。
ただ振れているように見えて、
実は進んでいる。
同じところを何度も通っているようでも、
僅かに進んでいる。
軸を保ったまま、
回転しながら進んでいる。
それがわかったとき、
ものすごく安堵しました。
ああ、これでいいんだ、と。
世界が少し、キラキラして見えました。
このスパイラルは、
どこに向かっているのかはわかりませんでした。
でも、その時点では
「どこに向かっているのかわからない」ということ自体が、
不安ではなくなっていました。
上下も左右も、
前も後ろも、
実はそんなにはっきりしたものではないのかもしれない。
ただ、軸を保ったまま回転しながら進んでいる。
それだけで十分だと思えた。
「どこ」というものについては、
そのあと、また少し考えることになります。
位置や方向というものを、
どう捉えるのか。
それもまた、自分の中で上書きされていく話でした。
その話は、また次に書こうと思います。
