手と思想の職人録 (noteでも読めますhttps://note.com/kurashikku_work)
自分が不安定であることを認めたとき、
少しだけ、不安もありました。
信念や大切にしていた軸が、
一瞬で書き換わることもある。
そういうことになる。
じゃあ、自分とは何なんだろう。
どんな人間なんだろう。
自分のアイデンティティが、
少し曖昧になった感じがしました。
でも、そこで気づいたことがあります。
「振れている」と認識できるということは、
そこに基準があるということ。
振れ幅だとわかるということは、
どこかに軸がある。
もし本当に軸がなければ、
振れていることすらわからない。
そう考えたとき、
少し安心しました。
自分が揺れていると感じるその瞬間に、
実は軸はちゃんと存在している。
揺れていることを、
自分が認知しているから。
それがわかったとき、
不安は少しずつ消えていきました。
むしろ逆でした。
振れ幅があるからこそ、
自由に動ける。
軸を見失わなければ、
どれだけ振れてもいい。
上にも下にも、
右にも左にも。
大きく振れれば振れるほど、
見える景色も増えていく。
ここで、もう一つ腑に落ちたことがあります。
ずっと「円」のイメージで考えていました。
中心があって、
そのまわりをぐるぐる回る。
でも、それだと何か足りない。
動いているようで、
進んでいない感じがしていた。
そこに時間が加わったとき、
全体像が少し立体的に見えました。
中心と振れ幅、
そして時間。
それは円ではなく、
スパイラルでした。
ただ振れているように見えて、
実は進んでいる。
同じところを何度も通っているようでも、
僅かに進んでいる。
軸を保ったまま、
回転しながら進んでいる。
それがわかったとき、
ものすごく安堵しました。
ああ、これでいいんだ、と。
世界が少し、キラキラして見えました。
このスパイラルは、
どこに向かっているのかはわかりませんでした。
でも、その時点では
「どこに向かっているのかわからない」ということ自体が、
不安ではなくなっていました。
上下も左右も、
前も後ろも、
実はそんなにはっきりしたものではないのかもしれない。
ただ、軸を保ったまま回転しながら進んでいる。
それだけで十分だと思えた。
「どこ」というものについては、
そのあと、また少し考えることになります。
位置や方向というものを、
どう捉えるのか。
それもまた、自分の中で上書きされていく話でした。
その話は、また次に書こうと思います。
