手と思想の職人録

2026-03-02 19:37:00

第六回を書きながら、
正直、衝撃がありました。

 

自分がやってきた後付け理論。

 

出来事を意味で書き換えることで、
後悔なく生きてきたつもりでした。

 

でも。

 

もし、最初に思い返している“出来事”の段階で、
すでに思考が働いていたとしたら?

 

思考は言葉で動いているはずで、
そのとき無意識に「出来事」という言葉を使っていたとしたら?

 

出来事という言葉には、
事実というニュアンスが含まれている。

 

つまり、

 

思い返した瞬間に、
それを“変えられない事実”として固定していた可能性がある。

 

この構造に気づいたとき、
天地がひっくり返るような感覚がありました。

 

 

これまでの作業を整理すると、こうなります。

 

1. 出来事を思い返す
2. 未来に与える影響を肯定的に捉える
3. 過去を肯定的な意味として確定させる
4. 後悔なく生きる
5. 繰り返す

 

でも、

 

①の段階で既に“事実”が加工されていたとしたら?

 

それは、

 

欠陥を修理していたのではなく、
最初から自分が描いた設計図の上で
調整していただけだったのかもしれない。

 

これは不毛なのか。

それとも、

人間とはそういう存在なのか。

 

 

いまは、まだ断定していません。

 

ただ一つだけ言えるのは、

 

意味付けは、
自分の在り方を確実に変えてきた。

 

ならばそれは、
幻想でも無駄でもない。

 

僕はたぶん、
事実を扱っていたのではなく、
意味を扱って生きてきた。

 

そのことを、
今回初めて真正面から認識しました。

 

正直、少し怖い。

でも同時に、
ものすごく面白い。

 

この先、
さらに深く解体していくかもしれないし、
全然違う方向に進むかもしれない。

 

いまはまだ途中です。

 

ただ、
うわ、やばいことに気づいた、と思ったこの感覚だけは、
ちゃんと記録しておこうと思います。