手と思想の職人録
第六回を書きながら、
正直、衝撃がありました。
自分がやってきた後付け理論。
出来事を意味で書き換えることで、
後悔なく生きてきたつもりでした。
でも。
もし、最初に思い返している“出来事”の段階で、
すでに思考が働いていたとしたら?
思考は言葉で動いているはずで、
そのとき無意識に「出来事」という言葉を使っていたとしたら?
出来事という言葉には、
事実というニュアンスが含まれている。
つまり、
思い返した瞬間に、
それを“変えられない事実”として固定していた可能性がある。
この構造に気づいたとき、
天地がひっくり返るような感覚がありました。
⸻
これまでの作業を整理すると、こうなります。
1. 出来事を思い返す
2. 未来に与える影響を肯定的に捉える
3. 過去を肯定的な意味として確定させる
4. 後悔なく生きる
5. 繰り返す
でも、
①の段階で既に“事実”が加工されていたとしたら?
それは、
欠陥を修理していたのではなく、
最初から自分が描いた設計図の上で
調整していただけだったのかもしれない。
これは不毛なのか。
それとも、
人間とはそういう存在なのか。
⸻
いまは、まだ断定していません。
ただ一つだけ言えるのは、
意味付けは、
自分の在り方を確実に変えてきた。
ならばそれは、
幻想でも無駄でもない。
僕はたぶん、
事実を扱っていたのではなく、
意味を扱って生きてきた。
そのことを、
今回初めて真正面から認識しました。
正直、少し怖い。
でも同時に、
ものすごく面白い。
この先、
さらに深く解体していくかもしれないし、
全然違う方向に進むかもしれない。
いまはまだ途中です。
ただ、
うわ、やばいことに気づいた、と思ったこの感覚だけは、
ちゃんと記録しておこうと思います。
