手と思想の職人録
僕は昔から、後悔がほとんどありません。
失敗もあるし、遠回りもあるし、恥ずかしいことも山ほどある。
でも不思議と「あれは無駄だった」とは思わない。
あとから意味をつけ直してきたからです。
あの時間があったから今がある。
あの苦しさがあったから手が育った。
あの選択があったから、いまここにいる。
そうやって、出来事を“必要だったもの”に書き換えてきた。
ずっと、無意識に。
だから僕は、人生には「出来事」があって、
そこに「意味」が乗るものだと思っていました。
でもあるとき、足場がひっくり返りました。
出来事の中に意味があるんじゃない。
そもそも、僕が「出来事」と呼んでいたものは、
全部“意味”だったのかもしれない。
ここが衝撃でした。
少し具体で考えてみます。
「昨日こんな出来事があってさ」
と誰かが話し始める。
そのあとに続く話は、ただの事実の羅列でしょうか。
きっと違います。
・どう感じたか
・何がわかったか
・どう変わったか
つまり、“意味”を語っている。
出来事という言葉は、
意味が格納されたフォルダみたいなものです。
出来事=意味。
ほとんどの場合、成立している。
なのに、僕たちは出来事という言葉を使った瞬間に、
それを“事実”のニュアンスで受け取ってしまう。
変えられないもの。
確定したもの。
動かないもの。
無意識のうちに、そう扱ってしまう。
ここに気づいたとき、少し怖くなりました。
言葉が、自分の世界の扱い方を決めている。
僕は、現場に向かう朝や帰り道、
作業車の中でよく考えごとをしています。
渋滞や人の流れ、流れていく景色を眺めながら、
気づけば思考が始まる。
癖なのか、性分なのか、
まるでルーティン業務のように。
答えが出ないものは音声入力でスマホに残し、
また隙間時間ができたら続きを考える。
そんなことを繰り返してきました。
その中で、何度も「出来事」という言葉を使ってきた。
でも、本当にそれは出来事だったのか。
言葉一つで、自分の世界の扱い方を固定していなかったか。
そして同時に、普段何気なく使っている言葉の影響力を改めて考えました。
出来事という言葉の中には、
「事実」というニュアンスが混ざっている。
事実は動かない。
でも、意味は動く。
その違いを曖昧にしたまま生きていると、
無意識のうちに、自分で自分の世界を固定してしまう。
これは誰かにかけられたものではなく、
自分で自分にかけている洗脳のような作用があると思います。
僕はようやく、こう思いました。
僕は、出来事の中で生きているのではなく、
意味の中で生きているのかもしれない。
この一文に辿り着いたとき、
見えているのに霧でよく見えなかったものが、
初めて鮮明に見えた気がしました。
ずっとそこにあったのに、
曇っていた。
それが晴れた感覚でした。
言葉の持つ影響力については、
もう少し自分なりの解釈で深めていきたいテーマです。
出来事と言いかけたとき、思ったときに、
また立ち止まって思考したいと思います。
それだけでも、世界の捉え方は少し変わるはずです。
僕はずっと、意味を後付けして生きてきました。
それが福田世界の基本設計だった。
でも今は、その設計図を一度広げて、
構造そのものを眺めています。
壊すためではなく、
どう成り立っているのかを確かめるために。
もしかすると、この先
世界観の上書きが起こるんじゃないか、と。
このテーマは、機会があればまた深掘るかもしれません。
